「赤朽葉家の伝説」桜庭一樹

赤朽葉家の伝説

赤朽葉家の伝説


私が桜庭さんの本を読むのは、これで二冊目ですが、この本は前に読んだ『少女には向かない職業』より数段、上にいってしまった、という感じでした。
より深みが増した、というか、また一皮むけたねという印象でした。

以下、内容に触れている部分がありますので、未読のかたはお気をつけください。



これは鳥取の旧家に生きる三代の女たちと、彼女たちを取り巻く製鉄一族の歴史を描いた大作です。
それも、孫の瞳子の目から見た、祖母と母の物語です。もちろん最後には自分自身のことも書いていますが。

大まかな視点は瞳子ですが、それぞれの時代を祖母、母自身の言葉で語っているので、まるでその時代にいるかのような感じをうけました。

まず、第一の章である万葉の章。ここでは戦後まもない日本のようすがよく描かれています。
そのうえ、赤朽葉家という、一種独特な家の存在。紅緑村のだんだんの坂の上にあるお屋敷、赤朽葉家。その名の由来は文字通り真っ赤なお屋敷ということから…。
「赤い瓦が輝く屋根に、赤茶色の門」「屋敷の大広間の、襖いっぱいに描かれた日本海と、まるで生きているように泳ぎ回る真っ赤な鯛の大群の絵」、これは外観上の赤。

そして、象徴的意味合いも。
赤朽葉家は製鉄一族の家であり、その「溶鉱炉を流れ落ちる真っ赤な滝」「油と汗まみれの職工たちの額にうつる、紅蓮の炎」そして「時代の変化によって火を止めて赤錆にまみれ、強大な廃墟と化した」その象徴する赤はすでに暗く、死都を思わす色合いで。
それは赤といえども、「暗い、腐りかけた紅葉の赤とでもいう色彩」であり、赤朽葉家を象徴する色でもあったのです。

この家は製鉄一家であるけれど、それだけではなく、ある不思議な力というものをもつ者がいる。それがのちにこの家に嫁いだ万葉の姑となる人物、タツに現れています。登場のしかたがまたたいそう奇抜で、万葉はタツのことを恵比寿さまのように思ってしまうほど。タツはお告げがあったと言って、万葉に嫁にこい、という。

そうして執り行われた万葉の婚礼がまた摩訶不思議な出来事で彩られていて・・・

坂の下から、坂の上まで花嫁行列となって練り歩いていくのですが、そこで何か大きな力が働いたのか、山から大風が吹いてきて一行の足を止めさせようとする。最後には四苦八苦の状態で、坂を登りつめ、赤朽葉家の門にたどり着いた万葉でした。

この場面、何か目には見えない山の神の力のような、土地の神といったらいいのか・・・そういうものを感じました。だからかな、私はこの場面でなぜか宮崎駿のアニメ映画を思い出してしまったのでした。

そうして嫁いだ万葉が、子どもを生むシーンがまたとてつもなく変わっていました。詳しくは省きますが、千里眼の万葉の力によって…
とにかくそのせいで、それからあと万葉は最初に生んだ子ども、泪から目を離せなくなるのですから。
子どもらに名づけたのは姑のタツでしたが、この名前が何とも奇妙としかいいようがない。泪、毛毬、鞄、孤独、とおよそ人間の名前とは思えない。もちろんそのままでは役所にも届けられないから、代わりの名前を出しておいて、家ではこちらの方で呼ぶ、ということをしています。
タツはどうしてこういう風変わりな名づけをしたかというと、ある理由があったのですが… まさにその後の人生でそのとおりになったという感じでした。

第一章が「最後の神話の時代」とタイトルがついているとおり、これは未だ神話の時代、古代に近かった日本で起きたお話でした。


そして第二章、毛毬の章。これは万葉の娘、毛毬の目から描かれた物語です。後に毛毬はその娘の瞳子に、自らの半生を語ることになるのですが…。

この時代は「巨と虚の時代」。巨万の富と孤独の時代、とでも言えばいいのか。
毛毬の幼きころより、レディースとなって中国山地をバイクで駆け回った時代から、漫画家として成功し、突き動かされるように大河漫画の筆を進める時代まで…

昭和初期の懐かしい風物とともに、淡々と物語られていきます。
私はこの章がいちばん好きで、とても惹かれるものを感じました。背景にある時代の流れもですが、漫画家になるという毛毬の人生に興味をひかずにおれないものがあったから、といえます。

レディースの頃の彼女にもまた、大きな魅力がありました。柔道技をもっていたり、警察など尻目に暴れまわったり、そんな日々を過ごしていました。あの当時の言葉でいえば、まさに不良少女だったことでしょう。
けれど、それでいながら毛毬には人間としての優しさがあった。そこがまた魅力の一因です。レディース時代に起きたあることによって、毛毬は漫画を描くようになるのですが、そのときの彼女にはもう何も残っておらず、『あいあん天使(エンジェル)』という、自らの半生を描いた大河漫画を描きつくすことに命をかけました。


ほか、さまざまないろんなエピソードがあります。その一々をここであげることは避けますが。
そのエピソードのどれもが心にひびくものでした。昭和の初期という時代的背景もあいまって、ものすごく印象的でした。

万葉と毛毬、この二人の生きた時代が、赤朽葉家にとってもっとも輝き、家としての命を燃やし尽くした時期だったのではないでしょうか。

ほかにも印象的な人物たちがいます。

万葉の親友の穂積蝶子。彼女はかつてのレディースの仲間で、後々まで毛毬に影響をあたえつづける人物。毛毬視点の、最後の場面が思い出されます。

そして、上の赤の赤朽葉家に対し、下の黒といわれた、造船業、黒菱家の娘。出目金こと黒菱みどり。その兄のエピソードが、非常に色彩的で、神話の時代の名残をしめすものでした。

穂積蝶子の親戚で、製鉄業の要となった人物、溶鉱炉を背負う男、穂積豊寿。彼は万葉にとって、とくべつな人物となったのでした。

ほか、万葉の夫、曜司、毛毬のきょうだい、泪に鞄、孤独。時代のながれとともに、彼らの人生もまたながれ、ながれていきます。

そうして最後の章。瞳子の章。
「殺人者」というタイトルがついたこの章には、それまでの万葉、毛毬の時代にあった輝きはすでに薄れかけています。
「語り手であるわたし、赤朽葉瞳子自身には、語るべき新しい物語はなにもない。ほんとうに、なにひとつ、ない。」のです。

瞳子にただひとつ残されたものは、祖母万葉と、母毛毬の物語を書きとめ、記憶を新たにすることのみ。伝説の時代に、科学のメスを入れるように、祖母の遺した言葉、「人を一人、殺したんよ」「だけど、憎くて殺したんじゃないんだよ」、その言葉の真相を探ろうと、呻吟苦慮します。

そうやって瞳子がようよう至った真実は、苦く悲しいものでした。その昔、千里眼万葉が幻で見たものが、とうとう、ここに至って具現化されたのです。

ここに、長い、長い赤朽葉家の古き命の終焉をむかえたわけですが、以前には何もなかった、空虚な存在であった赤朽葉瞳子のなかに、何かがひっそりと生まれた瞬間でもあったのでした。

瞳子の未来もまだこれから。
そして、紅緑村という日本ではまだ田舎の範疇に入る、美しい土地の未来も…。

現代という混迷の時代に、かすかな希望の光を彷彿とさせるような、そんな終わり方でもありました。

                                                                                                                                                              • -

ときわ姫 > ストーリーだけ取り出すとずいぶん変わっている話なのに、日本の戦後を普遍的に描いているという不思議な小説で、作者の力量を感じました。雰囲気が独特で、私も北原杏子さんと同じく「少女より〜」より数段レベルが上がったと思います。 (2007/04/29 10:15)
北原杏子 > ときわ姫さん、ほんとこの本を読んで、日本の戦後についての見方がちょっと変わったように思えました。教科書に書かれているようなものではなくて、実際に起こったことなのだということが実感できました。雰囲気も独特でしたが、呼んでいくうちにだんだんのめりこんでいきました。作者はどんどんレベルを上げているようで、嬉しい限りです。 (2007/04/29 16:23)