読書

千年の黙―異本源氏物語
「千年の黙 異本源氏物語」(森谷明子


この物語を作者が書く発端は、『源氏物語』には、欠けている巻がある、という説を知ったことから、ということだそうです。つまり、最初の「桐壺」と「若紫」の巻のあいだに抜け落ちてしまった巻があるのだという説…。
私は知識がなくてこのことは本を読むまで知らなかったのですが、でも学生時代に読んだ(読まされた)「源氏」の話にはどうも一貫性がないような、脈絡のないもののような気がして…。もちろん読むといっても、原文そのものじゃなくて、口語文と照らし合わせて読むというものだったのですけど。
源氏と藤壺中宮との関係にしても、プラトニックなものだったのか、それとも…?って感じがして、いまいちよくわからなかったんですよ。

それが、もしも一帖抜け落ちてしまっているとしたら、そうしてその欠けた部分に源氏と藤壺さんとの決定的な逢瀬の部分が書かれているのだとしたら…!

私もそれは読んでみたい。そうだとしたら、ほんとにその後の筋が全く変わってしまうんでしょうから。

この思いは、作中に登場する多くの女性たちに共通する思いだったでしょうね。そのことが読んでいて、びしびしと伝わってきました。本当に、『源氏物語』は当時から多くの人に愛され、伝わってきたのだな、と。
あとがき・・・というか解説なんでしょうが、それにその感覚がいまの若い女性たちのあいだで作られる同人誌的なものだったのでは、とありましたが、そうそうそんな感じでした。
光る源氏の君に夢中になって、むさぼるように読みふける女性たちのすがたが目に浮かんできそうです。

私も、この本を読んで、それほどこの『源氏物語』というのは面白いものだったのか!と認識を新たにさせられました。
なんというか、物語の力、というものも感じました。

欠けた一帖は「かかやく日の宮」というそうですが、それが欠けることになったおおもとの人・・・闇に葬った人物・・・それにより、いったんは消えかけ、不完全なものとなってしまった物語でしたが、でもその力ある人物がどんなことをしようと、一度生まれた物語を消すことはできないのだということ、世間の人々の強い関心をひきだし、忘れようとも忘れられない物語というものは、ひとりの人間の力などではおよそ消すことなど叶わないのだという・・・そういうことをつよくつよく感じました。

女性たちのみならず、老いたものにも、男性にも訴えかけるものがあったことは事実。女のかな物語よ、と口では軽んじながらも、実は影では熱読していたりする、そんな男性も多くいたことでしょう。

そんなことなどにも思いが及ぶ、たいへんに面白い作品でした。何かが消失した、というミステリ的な興味ということでも満足のいけるものでした。

また紫式部(藤式部)の人物像にも好感をもてました。
なんとなく「れんげ野原」の某人物を思い出しましたが…。ひじょうに現実的で、論理的な思考をもった女性なんですね。外見の印象では、人当たりがよくて物柔らかな女性、感情を爆発させることもなく物静かな女性という感じですが。
本物の紫式部が、こんなふうな人物だったらいいな、と思わせられます。

「かかやく日の宮」のことばかり書いてしまいましたが、その前日譚の「上にさぶらふ御猫」もおもしろかった、です。
ヒロイン(っぽい)女童のあてき(のちの小少将)もよい印象でした。おてんばで木登りもしてしまうところなどは、氷室冴子の「ジャパネスク」を思い出してしまうほどでした。
そんなあてきが恋する少年の岩丸もよいですねぇ。
とうてい手の届かぬ、高嶺の花・・・に思慕してしまうところなんか。2人の関係も初々しくって可愛かったし、そういところでも前述の「ジャパネスク」を連想してしまうのでした。

作者は古典に素養のある方と見受けられますが、またこういう感じの作品を書いてくれないものでしょうか?
そういえば、最近(「れんげ野原…」を読んだ頃)、近々これの続編がでるようなことをどこかで目にしたような? この話はこれで完結しているようなので、きっとまた別な話なのでしょうが。
古典を題材とした作品だったらいいな〜。
…とは、学生時代に現国よりも古典の授業が好きだった私の呟きでした。

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ピアノの森 1 (モーニングKC (1429)) ピアノの森 2 (モーニングKC (1430)) ピアノの森 3 (モーニングKC (1431))
ピアノの森 1〜3」(一色まこと講談社