少年の日のノスタルジィ・・・「たんぽぽのお酒」

『たんぽぽのお酒』レイ・ブラッドベリ



『たんぽぽのお酒』

作者: レイ・ブラッドベリ, 北山克彦
出版社/メーカー: 晶文社
発売日: 1971/06
メディア: 単行本


30年物の『たんぽぽのお酒』を初めて紐解くことが出来ました。
アメリカ・イリノイ州生まれの、幻想SFの書き手、イメージの魔術師レイ・ブラッドベリの逸品です。
かがやく夏の陽射しのなか、そよ風にのって走る12歳の少年ダグラスの多感にみちた夏の日々・・・
それら数々の不思議が、夏の始めに仕込まれたタンポポのお酒の一壜一壜に詰まっています。
その壜の封を切るだけで、忘れられた夏の香りがいまいちどよみがえってくるのです。


とてもひとことでは言い尽くせないほどのものがここにはあります。
ダグラス・スポールディング少年と周囲の人びと。
イリノイ州グリーンタウンの町の人びとのひと夏があざやかに描かれています。
まだ夏がはじまったばかりの輝けるばかりの6月。それは一日の時間にたとえるのなら、
輝かしい夜明け、です。
そしてけだるい正午のように、ゆったりした時間の停滞したような7月。
あたかも永遠に夏がつづいていくのだと、錯覚したくなるような時間。


夏がはじまると、町の人びとは家のポーチに鎖につるされたブランコや揺り椅子を出し、
夜が更けても、パイプの煙とともに語らいをつづけます。それは大人も子どもも同じ。
ダグラス少年も家のポーチの床に寝転んで、大人たちの会話を聞きながら、ゆったりとした時間を過ごします。
それはなんて贅沢な時間なんでしょう。羨ましくなりますね。


それから・・・ 8月がついにやってきます。
9月がきて夏休みが終わり、子どもたちが学校にもどるまで。
その終わりの日に向けてつづく日々、それはまるでなごり惜しむ、ながいながい宵のように・・・。


たんぽぽのお酒、新しいスニーカー、ポーチのブランコ、アウフマンさんの《幸福のマシン》、フリーリー大佐のタイムマシン、二人の老婦人の乗る電気仕掛けの《グリーン・マシン》、トリデンさんの市街電車・・・

もしくはミス・ヘレン・ルーミス、ベントレー夫人、ダグラスの友達ジョン・ハフにチャーリー・ウッドマン、
そしてとりわけ、ジョウナスさんのがらくたを積んだ車!

ダグラスと弟トムのおおおばちゃんの存在も忘れてはなりません。
そのお別れの場面は、涙なくしては語れないものでしょう。
もちろん、おばあちゃんも。平凡でつまらないローズ伯母さん追っ払えて正解でしたね。


ほか印象にのこったシーンはいろいろありますが(すべてと言っても過言はないでしょうが)
前半では、《幸福のマシン》を作ったアウフマンさんの話が心にぐっときました。
幸福って、もっとも身近にあるものだったんですね。身につまされます。

それと市街電車の運転手だったトリデンさんの話も、じーんときますね。
時代に追われ、消えていってしまったものたちの影を見るようで。
あの最後のピクニックの場面、忘れがたいです。


話を聞くだけでその時代にいける、タイムマシンそのもののような存在だった、フリーリー大佐の話も心にせまります。
そう、こういうことってありますよね。
心だけはいくらでもその時にもどることができる。細部をおぼえていさえすれば・・・


本のカバー折り返しの部分に載っていたいぬいとみこさんの推薦文、
「<タイムマシン>の力をかりなくても、本の世界に入りこむことができれば、過去へでも未来にでも自由に行ける。」
全くその通りです。


フリーリー大佐の話は、同じ効果をダグラスたちにあたえてくれたのでしょうね。
それだけに最後の部分は寂しかったです。


後半では、ダグラスのおおおばちゃん… おばあちゃんのさらにうえのおばあちゃん。曾祖母ってことでしょうか? 
一生のあいだ忙しく、いろいろなことをこなしてきたおおおばちゃん。
その最後のお別れのシーンは何とも彼女らしい最後でした。
とくに自分の子孫がいるから、自分は本当に死んだことにはならないってところ。
自分の子どもたちのなかに、自分も生きているってことですよね。
だから死ぬことはちっとも怖くないって・・・


人間死ぬときはだれでもひとりぼっちなわけですが。
このおばあちゃんの言葉を聞くと、ちょっとだけ勇気がわいてくるような気もします。
ダグラスが、自分が生きているということに気づいたのと同じで、
突然、この自分も死ぬんだと確信したところ・・・。
ぞっとするほどの真実。たった12歳の少年がそれに気づいて。


永遠に笑いながら若いままいられる、そうでないことなんてありっこないと、そう信じている子どもたち。(または若者たち)
彼らが気づかないでいる真実にダグラスは気づいてしまった。

それは人間として生まれたからには、絶対についてまわる真実でありながら、
たいていの人はそれに気づかない。もしくは忘れている。気づいていないふりをする。
気づいてしまうと、とんでもない深淵が自分を呑みこもうと待ち受けていることに
気がついてしまうから。
毎日そんなことを考えては人は生きてはいけないから。
気づいてしまったら、叫びだしたくなるほどの恐怖が自分を取り込んでしまうから。


ダグラスもその事実に気づいてしまった・・・ 「いつか、この、ダグラス・スポールデイングも死ななければならない・・・」
だれもが死んだから、と夏に起こったできごとをふりかえり、確信したダグラスは蝋人形の魔女を救い出そうと、突飛な行動にでる。
いつも冷静で、数と統計の大好きな弟のトムには理解しがたいことだったでしょう。

それはダグラスの死への恐怖がおこした行動だったのでしょうか。
本当はただの人形の魔女を、生きているものと思い込み・・・
たすけようとするダグラスは。


そしてついに理由のわからない病気になってしまう。医者にも原因のわからない病は、結局のところなんだったのでしょう。
やはりダグラスの心の病だった・・・そういうのでしょうか。
それを救ってくれたのは、屑屋のジョウナスさん。
ジョウナスさんがくれたもの・・・ 広口壜につまったあるもの・・・


それはまるでタンポポのお酒のつまった壜と似ていて…。


いつでも、つめたい冬の季節にも、その壜をあけただけで、夏の香りがもどってくる。
空気が、風が、太陽の熱が。
それを嗅ぐだけで、見つめるだけで少年の傷は温められ、ふたたび夏の日にもどることができるのです。


永遠の夏・・・
そんな言葉はうそになるのだろうけれども。


信じたい気持ちもある。その信じたいという気持ちがあるだけで、きっと人生はずいぶん変わって見えるはずだから。


自分が死んでも本当には死んだことにはならないと言って、行ってしまったおおおばちゃんのことばが胸にせまってきます。
ダグラスも、ジョウナスさんにもらったものをほかのだれかにわたすことができた。
その、人と人とのかけはし。
繋がり・・・あたたかさ、ぬくもり。


ちいさな町に起こった、夏のあいだのちいさな、そしてふしぎな出来事の数々。
そこには、人びとの心と心がやさしく行きかっていた。強くそう思います。


イメージの魔術師とも呼ばれた、レイ・ブラッドベリ。その真骨頂ともいえるお話でした。それは読めば読むほど印象が変わるものなのかもしれません。
10代の頃に読めば10代の・・・そして大人になったいま読めばこの現在の自分が投射される作品のように思えてなりません。
私は、この本をいま読んでよかった、と思います。
もちろん十代の頃にも読めたらよかったでしょうけれど。
いまでこその感じ方もある。
その感性をだいじにしたい、と思いました。