「ぼくは勉強ができない」山田詠美

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

これも前と同じく、お風呂読書用の本でした。読んだり、読まなかったり、ずっと本をお風呂場の脱衣所(兼洗面所)におきっぱなしにしてました。で、やっと昨日読み終わりました。

また短編なので、お風呂読書用にはちょうどいい切れ目のようでよかったです。
内容も前に読んだ『放課後の音符(キイノート)よりはよかったみたいです。最初、主人公のぼく(時田秀美)の性格に歩み寄れないものを感じてしまいましたが、だんだん読んでいくうちにそれも薄められてきたようです。


タイトルが興味をひく感じでよかったですね。「ぼくは勉強ができない」 
私も勉強はできるほうじゃありませんでしたからわかりますが、このタイトルだけで親近感わく人も大勢いるでしょう。

もっと「ぼく」の年代に近い年頃に読んでいたら、とも思いましたが、あとがきで著者が大人の方にこそ読んでほしい、と書かれているのを読んで、いまの歳の私が読んでも決して間違いじゃあなかったんだ、と思い直しました。


これからも著者の本を読むかどうかはわかりませんが、お風呂タイムというひとときに、いい本を読みました。
こんな親子(母・祖父・子)なんて現実にはありえないのかもしれないけれど、それでも小気味よく感じられました。

最後に収録されていた番外編「眠れる分度器」がとくによかったです。
秀美が小学校五年生の頃の話で、奥村というちょっと堅苦しい考え方をもった教師(奥村)とぶつかるさまを描いたものでした。
給食の時間にいつも、自分の家の鳥の餌だといって、みんなから食べ残したパンをもらっているクラスメイトの少女の真実を知って深く傷ついてしまう秀美。
その子のことをかわいそうに、と思ってしまうことがどれほどその子を傷つけることなのか、知って。
子どもにはどうしようもないことが時々あるのだ、と。それに対して哀れみをよせることはこの上もなく失礼なのことなのだということが描かれています。
人生ではじめてそういうことを知ってしまった少年の(少女の)心の痛みに満ちた小品でした。
でも最後のところでは少し救いがあるかな。
秀美の母親と話をしたりして少しは影響があったのか、あの教師。
子どもに正しいことを教えたいと思うその心はわかるけれども。
秀美の母仁子はそれが教師である必要があるのか、と問いかける。

ラストで、授業にならなくて子どもたちといっしょに川べりに出てみようということにした奥村だったけれど、それは何かの答えになっているのかいないのか。

こういう問題は大人になってこそ、より深く考えられる問題なのかもしれません。