「銀色の恋人」タニス・リー

銀色の恋人 (ハヤカワ文庫SF)

銀色の恋人 (ハヤカワ文庫SF)


(改訂版。再読。446p。)

この本は、1987年に刊行されたものの新装版です。今から20年も前に発行されて、なぜ今頃新装版かというと、2005年に突然、その続編『銀色の愛ふたたび』が刊行されたこともあって、その翻訳が出るというので、このたび版を改めて出直した、とのことです。
私は、旧版を持ってはいるものの、この際だ、と思い、新装版を購入、再読してみました。


細かい部分は忘れてるところもあったけど、印象的な文章などけっこう記憶に残っていて、ああそうだったなぁ〜と当時をぼんやりと思い出しました。

しかし、作品を読んでの感想は、残念ながら初読ほどのインパクトはなく・・・。最後、どうなるかを知っているからかな、とも思いましたが、なんというかはじめに読んだ当時の感傷的ともいえる、感想は今は持つにいたらず、という感じでした。


この話は、ロボットと人間の女の子の恋物語なのですが、このヒロイン、ジェーン(16歳)が、もう最初はめそめそ泣いてばかり、という性格で、人によっては煙たがられそうな感じ。
それがロボットのシルヴァーと出会い、突然の恋に陥り、手に手をとって逃亡の徒についてからは180度全く変わり、泣いている暇なんてなかったからかもしれないけど、市井の現実を知り、シルヴァーと生きる道を模索していこうとする、大人の女性へと変貌しています。


経済的なことに関しても、以前だったら、母親のデーメータに与えられたキャッシュで、使い放題のやりたい放題のわがままぶり。
全く現実というモノを知らず、家出して貧しい生活を余儀なくされたとき、そのキャッシュを母親から停止させられ、はじめて現実というものの厳しさを知った、という、とんでもないお嬢さんでした。


それがシルヴァーとともに生きるため、自活の道を選んだとき、変わっていきます。
わずかな収入を得ようと、街頭に立ち、得意の喉を披露するシルヴァーにつられ、ジェーンも初めて人前で歌うことに同意するのでしたが、だんだん度胸もついて歌うことにも慣れ、貧乏ながら二人で生活していくことに喜びを見出せるようにもなり、またそんな二人は町の人々にも認められ・・・
もちろんシルヴァーのことをロボットだと見抜いている人はいません。全く人間と変わらぬ肌、容貌の彼、その上、人間的なしぐさや口調など真似るのは造作もなく。
二人はこのまま町の片隅でひっそりと生きていくのではないか、と思われるのですが・・・


落とし穴は思わぬところにあって・・・ジェーンの昔の友人、ジェイスンとメディアの双子。彼らの、ちょっとした思いつきによって、ジェーンとシルヴァーの運命は思わぬ道すじをたどっていく。

ここらあたりから雲行きがあやしくなります。
そして、二人の逃避行はさらにさらに、厳しい状況に陥っていってしまうのでした。

この場面は、昔の私だったら、涙なくしては読めないところだったでしょう。悲劇的な恋人たち、ロミオとジュリエットのように、二人の恋は滅びてのちも燦然と輝き、他に類をみないものだったでしょうに・・・

あとがきに、「このラストを感傷というひととは話をしたくない!」と、訳者の井辻朱美さんの言葉が載っておりますが、そのとおりだと思いました。
ひたすら、このストーリーに酔い、どっぷりと浸りこんで、シルヴァーとジェーンの二人を永遠の恋人たちだ、などと思ったりして。

今、思えば、赤恥ものではあります。
そんな昔とくらべれば、冷めた目で読んだような感じの再読でした。前は思わなかったことも、今回は感じてしまった。

とくに、なぜジェーンはたった一度、見ただけのロボットのシルヴァーに恋をしてしまったと思い込んだのか、それについては今、読むと唐突すぎて、理由も何もありません。
まあ恋には理屈なんてないのかもしれませんけど、ジェーンの入り込みっぷりには、少々ひいてしまった感がありました。

全く甘いだけのストーリーでしたが、でもそこここに現れるフレーズの数々は、今読んでも、心にやさしく、しっとりと琴線にふれてくるような感じはします。

とくに、最後のクローヴィスの交霊実験には・・・

このクローヴィスというのは、同性愛者で、異性には興味をもたぬ人でしたが、ジェーンに関してはちょっと違ったようで、なんだかんだいって最後には彼女を助けてあげてしまうような、そんな人。

クローヴィスのことは以前は、気にも留めなかった私でしたが、今回は彼にけっこう目がいってました。けっこういいやつだったじゃん、なんてね。

その彼がいつも気に入らない相手と手を切るときにやっていた、いかさまの交霊実験。その実験で、ジェーンは信じられない光景を目にすることになります。

そのことによって、ジェーンの魂は救われ、のちの世に希望を持たせることにもなったのですが、ここの部分が秀逸でして… ジェーンの綴りを、J・A・I・Nとつづる霊が誰だったのかわかったとき。奇蹟が起こります。
JAINのスペルにひっかけて、かつてシルヴァーが口にした詩的な響きのある言葉のかずかずが、ジェーンの心を深く打ちます。それらの心霊のなせるわざを否定するのは、あまりにも簡単ですが、ジェーンはあえて難しい道を選びとりました。

ロボットには魂がないのか、その命はどこら辺にあるのか。電源スイッチを切ったあとはただのガラクタ同然の物体にすぎず、人間的表情と見えたものも偽りのすがた、そのように見せかけたものにすぎないのか。

その深い問題をうけ、その後のジェーンの長い長い人生がはじまります。彼女の人生の最後に待っているのは、ロボットだったシルヴァーの魂なのだろうか、二人はふたたび逢い合うことができるのか…

これはジェーンの手記という形をとった作品ですが、最後にジェーンは母のデーメータと和解し、歩み寄ろうとする決意をするのですが、これは結局なんのためだったかというと、彼女が書いた手記を本のかたちにし、出版するためでした。

この手記が、続編の『銀色の愛ふたたび』に登場し、新しいヒロインの手に拾われることになるのですが・・・
それは後ほどに。

当時はタニス・リーといえば、幻想的ファンタジーの旗手という感じだったので、突然、このSF的設定をもった話を読んで、驚いたものでしたが、それでもこれはSFとして読むのではなく、リー独自のファンタジーだったのだ、とそういうふうに読むことが、いちばんしっくりする気がします。

前に読んだチャペックの『ロボット』から連想して、こちらの作品を再読した私でしたが、ひとつの作品をまた違う目で見ることができ、大変よかったと思いました。
感傷的すぎるという見方もできるけれど、それでも、いま読んでもあせない部分はあって、そこのところが人の心をうつのではないでしょうか。
そして、やはりこれはタニス・リー独特のファンタジーだったのだと。改めて思ったしだいです。舞台はSFだけど、手法はファンタジーとしてのそれだな、と…。
世界にあるなにものにも魂は存在する。物言わぬ草木にも、一寸の虫にも、ただの物にすぎない人形にも、人の手になじんだ道具類にも、すべてのものに魂はあるのだ、という日本的発想に照らし出してみれば、ロボットにだって魂があったって不思議ではないのでは?
といった趣旨の文章が続編のあとがきにありますが、それを読んでなるほどなあと思った私でした。
どっちかといえば、そういうことを信じたい、甘ちゃんの私です。こういう私だから、リーの『銀色の恋人』の世界も受け入れたのでしょう。

そうして、その続編は、といえば・・・ 次に譲ります。