とん、たたん、とん――「麦ふみクーツェ」

麦ふみクーツェ (新潮文庫)

麦ふみクーツェ (新潮文庫)

いしいしんじさん・・・、やっとこの作品にまでたどりつきました。
じつはいしいさんの名まえを見かけた最初が、この『麦ふみクーツェ』だったからです。「麦ふみ」と「クーツェ」という言葉がふたつ組み合わさって、これはどういう意味があるんだろう?と、不思議でした。
で、やっといま読めて、大満足です。

これは音楽の話だったのですね。いしいさん特有の、無国籍の世界。例によって人も地名も固有名詞はなし。イメージと役柄、仕事柄にあわせたそのものズバリのネーミングは、いつもながら素晴らしいですね。

この本にも忘れがたい人物が出てきました。「ねこ」とだけ呼ばれる、主人公の「ぼく」。それに有名なティンパニストだというおじいちゃん、学校の先生で、数学の研究者だった父さん、スクラップと作曲が趣味の、学校の用務員さん、その他町の人びと、郵便局長さん、肉屋さん夫婦、役場の出納係さん、配管工さん…、そして大きな街に住んでいる、郵便局長さんの妹さん、盲目のボクサー、ちょうちょおじさん。そしてそして忘れもしない、都会に住んでる変わり者、チェロの先生に娘のみどり色、むらさきみどりたち七匹の犬たち…。

これだけ名まえを上げているだけで、彼らの物語がよみがえってくるようです。が、やはり何より印象強いのは、冒頭に描かれていたこと。

とん、たたん、とん――と、響く不思議な音。ねこが聞いた音、麦ふみクーツェの足音でした。

これはいったい、何のことだろう?
この音とともに現われた、あの奇妙な男の正体はなんなの?まさか小人? 神さまみたいなもの?(ほら貧乏神とか、家につく神さまの類の…)
それに、どうしてどうして突然、ねこの家の玄関前に黄金の麦畑が??? 全く何の脈絡もなく起こったことのように思えました。
それから男は、ねこの家の屋根裏に住みついた?ってことになるんでしょうか。
だけど、家にいないでもねこの耳に、時々あの音(とん、たたん、とん)が聞こえてるみたいだし。

と、何だかとっても割り切れない気分だったのですが、それはちょっと脇に置いといて… 
先ほどあげた登場人物が織り成す、物語の数々にしだいに引き込まれていきました。

これは、何と言うんでしょうか。前にも何度も感じたことですが、いしいさんの描かれる本っていうのは、大筋がひとつあって、そのなかにまた細かな話が無数に存在している、という感じなのですよね。
いわばたくさんの短編が集まった、大長編。
だから、ちょっと脈絡がないように感じ、まとまりがないようにも感じられるのかもしれません。

その点では、レイ・ブラッドベリ的なのかな?と思いました。雰囲気は違うかもしれませんが、いろんなエッセンスが集まって、ひとつの物語を織り上げていく、という意味では同じではないか、と思えます。

最後のほうになって、やっと冒頭の「手術台」の意味がわかりました。そうだったのか!って感じでした。
みどり色という名まえをつけられた、女の子もいい感じですね。先天性全色盲、という、生まれつき色がわからない病気なのだそうですけど。
この女性もそうだし、盲目のチェロの先生もそうだし、同じく盲目のボクサーちょうちょおじさんも同じ。
障害を負っているのに、全然ふつうの人と変わらない生活を送れている。あの用務員さんだって同じでした。やっぱり体に障害があるのに、それに途中まで読んでやっと気がついたくらいでした。

そういう社会的に弱者である人たちに対し、いしいさんはあたたかな目をそそいでいます。
それが読んでいて、ひしひしと感じられました。

そして何より音楽! 音楽はこんなに人びとを幸福にするものなんだ、と思いました。聴くこともそうだし、いっしょに合奏することもそう。
用務員さんやねこが作曲した、

「なぐりあうこどものためのファンファーレ」
「すべてはてこところのおかげ」
「なげく恐竜のためのセレナーデ」
「赤い犬と目のみえないボクサーのワルツ」

などなど、曲名だけ見ていても、楽しそうなものばかりで。実際にはどんなふうなんだろう?といろいろ想像してしまいます。でも一見、なんでもないようなふうに見えるけど、その中には深い物語が隠されているんですよね。
曲ができた由来を考えると、あらためてしみじみとしてきます。
とくに、「なげく恐竜のためのセレナーデ」なんか… なんとも不思議で、そして悲哀のこもったものではないか?と思います。恐竜の話では、やはりブラッドベリの「霧笛」を思い出した私でした。いしいさんが意図して書いているのかどうかはわかりませんが。

そしてラスト。やっと麦ふみクーツェの意味がわかりました。読みはじめに感じた不可解な感じは、ここですっきりと解消されました。
まさに、そうだったのか!でした。そして私も、クーツェな人になりたい!!(半分、そうかも)と思ってしまいました。
本当に、いしいさんってすごいです。この作品は「坪田譲治文学章受賞作」だそうですが、それだけのものはあると思いました。

ここから、いしいワールドがさらに発展していくのですよね。その後の世界を堪能したい・・・。これからもずっと読んでいきたいと思います。