「レインツリーの国」有川浩


レインツリーの国

レインツリーの国

『図書館内乱』の1エピソードとして登場した本、『レインツリーの国』実物です。
『図書館内乱』では、この本をめぐってある騒動が起こるのですが、それは聴覚障害のある少女に絡んだトラブルでした。
その少女がある人物にこの、聴覚障害のある女性を描いた作品『レインツリーの国』を薦められて読んだところ、起きてしまった悲しい出来事なのですけど。
詳細は実際、『図書館内乱』を読んでいただくとして。


その本の実物である本書は、真っ向からその問題(聴覚障害者に関する問題)に取り組んだ作品です。
この作品を読んで、私は初めて知ったことがたくさんありました。

まず、聴覚障害と呼ばれる人々に、障害のレベルや、どうしてその障害を負ったのか、生まれつきそうなのか、それとも人生の途中で障害を負ってしまったのか、そういうことによって違いが出てくるものなんだ、ということ。それを読んで、目からウロコが落ちた思いでした。


それから耳が聴こえない人がどうやって人と接するのか、といえば、まずうかんでくるのが手話でした。
耳が聴こえなくなったら、当然手話を学んで、それで会話するものと思い込んでいました。

でも、『図書館内乱』に出てきた女の子も、この『レインツリーの国』に出てきた女性もですが、会話の主体は手話ではなく、メール等を利用した筆談と、相手の唇の動きを読む読唇術、わずかに残った微かな聴力、会話の前後への予測等、それらを駆使して必死に会話しているのだということだそうです。
これは全く予想外のことでした。認識が新たになりました。


本当に考えただけで大変です。
静かな場所でないと集中できないだろうし、そもそも相手の人の唇を見れないとダメなわけで、並んで道を歩いてる時は唇を読めないから全くダメ。相手の正面に位置し、じっくりと見れなきゃダメなんですから。


補聴器もつけていてさえ、わずかな聴力。それを補おうと、様々なことを駆使して会話する。
相手の唇の動きを読む。会話の前後を予測して、たぶんこういうことを言っているのだろうと予想する。
それには一対一の対応でないと無理。大勢での会話はまず楽しめない。唇の動きに注目しなきゃならないから。
健聴者の人は、ただ漫然と「聞く」という行為が普通にできるけれど、聴覚障害の人はそれができない。一心に様々な手を駆使して、「聴く」行為中心になる。
だから集団での会話は無理ということになる。


それによって様々な問題も起きてくる。その人が障害を負っていることを承知している人ならいいけれど、知らない人が相手だったらどうなるでしょうか。
一々説明して歩くのも面倒なことだし、自分からそれをいうには躊躇われる、ということもあるでしょう。
もしかして無視されてると思われるかもしれない。
満員のエレベーターに乗ってブザーが鳴っても気がつかなかったら、まるで自分が乗りたいがために、ほかの誰かが降りろ、と示唆しているようにとられるかもしれない。


映画を映画館で見る時には、洋画の字幕版でないと、ダメであることも、ああそうかと思いました。
もちろんそういう設備がある映画館ならば別でしょうが。
もし障害のことを知ってない相手と映画を観る場合になったら・・・おのずとそういう結果になるでしょう。


それと手話に関することですが。
元々耳が聴こえない人びとがどのように思考しているか。それは日本語での思考ではなく、手話での思考なのだということにも、あ!と思いました。
そう考えてみると、手話を学ぶとは、まるで外国語の習得のようです。
中途聴覚者が、手話での会話がメインにならない理由もそこでわかりました。
ほかにもいろいろなことに、この作品は気づかせてくれました。


同時に、この本は聴覚障害を負った女性と、健聴者の男性との、真っ向からの恋愛小説でもあります。そのきっかけは、「忘れられない本」。とあるライトノベルの本なんですが、そこから二人のメールの交換がはじまります。
その本は私は読んだことがありませんでしたが、その作品の登場人物にうまく絡めて、この『レインツリーの国』に出てきた男女の恋愛話もまとめていると思いました。


一読後、とても心が爽やかになるようでした。
この男女の将来は厳しいものになるのかもしれないけれど、出来うるものならば叶ってほしいものだと思います。
補聴器を人に見せて歩くことを自ら選んだ女性、ひとみには、きっとそれができる強さがある、と思いました。それをわきから支えようとする男性、伸の側にも…。

『図書館内乱』からはじまった作品ですが。とてもいい作品に出会えたと思います。